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|SUB AGO 11|6.1 x 52|coh-hk|($99/6×2=$33)|重量:+1(14.05g)|算出:+6|香味:+5|
一口懐かしい。コイーバ風味の懐かしさかといえば釈然としないが懐かしい。藁束の布に寝転んだような。ともすると汗臭さが立ちそうになりそうなところ、転じて転げて新緑のいきれがふっと吹き消したように香る。とともに質の良い甘さ。葉の濃さ。茶色も濃いが、緑色も濃い。花も盛りを迎えそう。
ビオフェルミンの匂いやかさがセレクションに総じて有るようなのは、コイーバにコイーバの葉を入れるように、セレクションにはどれも同じセレクションの葉を混ぜるのだろうか。
見たことが無いほど美しい色の金木犀が咲く。一瞬、なんだか底知れぬ葉巻である。
栗を灰でまぶしたような、其処に強烈な花。
葉巻の概念も、コイーバの概念も覆す、或いはこれこそ葉巻の概念そのもののような強烈な強さと香高さ。
シグロⅥの円いカフェオレとは対極の、或る一本のエスプレンディドスを偲ばせる、高名な農園の、鮮明なダージリン茶の香と苦みばしった渋味。其処にほくほくと温かくて美味しい、微かに酸味づいた毬栗が。その毬栗の棘棘が、何故か丸い。その丸さが、丸でなく、丸に無数の細かい棘の優しさ。
グランレゼルバでもいつもこれ以上とはなるまいと思う依怙贔屓のような味がする。葉巻の裏切り易さを知れば、この真正の一本で一万円の価値はあるような。セレクションというものは思っていた以上に凄い物らしい。コイーバだから歴然として貫禄があるが、昨年のロメオも凄い物を作ろうとして作られた凄い物だったのだろう。
甘さ、清香、沈香、渋味、コク、全てがアンバランスなほど極大に膨れ上がって突出している。各要素を各要素に隠し、土竜叩きのように忙しい曇り空。
小揺るぎもせず、常に揺らいだ風味が段々濃くもなる。何処がどう濃くなるのか知れず、ただ花が毒々しいほど鮮明に目立ってくる。毒は回るとまさに人を酔わせ倒れさせるニコチンの毒になりつつある。死ぬ時に一番濃い花を見ることができるのだろう。だったら此処で本当に死んでしまってもいいのではないかな。そんな覚悟のある葉巻吸いが居るか。さにあらず、死をも包むが葉巻の煙である。其処に飄々として夏の萱越しの涼しい風のビオフェルミンが効いている。恰も淡白な。
久しぶりに葉巻だけに集中させられ、そんな時は後々恥と思うような浮ついた言葉も控え目に、文豪に目を向けて、文学に於ける葉巻の道具としての使い方を考えてみようとも思う。此処で考えるわけではないのだが。
最近泉鏡花(明治6年(1873)~昭和14年(1939))ばかり読んでいて、鏡花作品にも「葉巻」の文字がけっこう出て来る。「泉鏡花 葉巻」でたった今検索するとざっと五作(『海城発電』『春昼』『政談十二社』『取舵』『古狢』)出てくる。往時の葉巻の味わいとはどのようなものだったのだろう(次いで約二十歳若い芥川龍之介(明治25年(1892)~昭和2年(1927))もけっこう「葉巻」と書いている)。ちなみに散漫にパルタガスのみを調べると1845〜現在とある。コイーバは無論その頃には製造されない。鏡花の場合、明治時代の初期作品に「葉巻」の字が出て来て、晩年につれ文体が江戸っぽくなる為、江戸時代に葉巻があったかと思えてしまう時代錯誤に陥る。事実明治とはいえ、キューバンダビドフという以上の興味が湧く。
残6センチで明らかに衰える。それでも限りなく+5に近い+4で四捨五入してしまう。葉巻葉巻している為、昨年のロメオにあった葉巻らしからぬポポーの衝撃は無く、葉巻が好きならこちらの方が好きなのだが、どちらが好きなのかわからない。
参照:◉
一口懐かしい。コイーバ風味の懐かしさかといえば釈然としないが懐かしい。藁束の布に寝転んだような。ともすると汗臭さが立ちそうになりそうなところ、転じて転げて新緑のいきれがふっと吹き消したように香る。とともに質の良い甘さ。葉の濃さ。茶色も濃いが、緑色も濃い。花も盛りを迎えそう。
ビオフェルミンの匂いやかさがセレクションに総じて有るようなのは、コイーバにコイーバの葉を入れるように、セレクションにはどれも同じセレクションの葉を混ぜるのだろうか。
見たことが無いほど美しい色の金木犀が咲く。一瞬、なんだか底知れぬ葉巻である。
栗を灰でまぶしたような、其処に強烈な花。
葉巻の概念も、コイーバの概念も覆す、或いはこれこそ葉巻の概念そのもののような強烈な強さと香高さ。
シグロⅥの円いカフェオレとは対極の、或る一本のエスプレンディドスを偲ばせる、高名な農園の、鮮明なダージリン茶の香と苦みばしった渋味。其処にほくほくと温かくて美味しい、微かに酸味づいた毬栗が。その毬栗の棘棘が、何故か丸い。その丸さが、丸でなく、丸に無数の細かい棘の優しさ。
グランレゼルバでもいつもこれ以上とはなるまいと思う依怙贔屓のような味がする。葉巻の裏切り易さを知れば、この真正の一本で一万円の価値はあるような。セレクションというものは思っていた以上に凄い物らしい。コイーバだから歴然として貫禄があるが、昨年のロメオも凄い物を作ろうとして作られた凄い物だったのだろう。
甘さ、清香、沈香、渋味、コク、全てがアンバランスなほど極大に膨れ上がって突出している。各要素を各要素に隠し、土竜叩きのように忙しい曇り空。
小揺るぎもせず、常に揺らいだ風味が段々濃くもなる。何処がどう濃くなるのか知れず、ただ花が毒々しいほど鮮明に目立ってくる。毒は回るとまさに人を酔わせ倒れさせるニコチンの毒になりつつある。死ぬ時に一番濃い花を見ることができるのだろう。だったら此処で本当に死んでしまってもいいのではないかな。そんな覚悟のある葉巻吸いが居るか。さにあらず、死をも包むが葉巻の煙である。其処に飄々として夏の萱越しの涼しい風のビオフェルミンが効いている。恰も淡白な。
久しぶりに葉巻だけに集中させられ、そんな時は後々恥と思うような浮ついた言葉も控え目に、文豪に目を向けて、文学に於ける葉巻の道具としての使い方を考えてみようとも思う。此処で考えるわけではないのだが。
最近泉鏡花(明治6年(1873)~昭和14年(1939))ばかり読んでいて、鏡花作品にも「葉巻」の文字がけっこう出て来る。「泉鏡花 葉巻」でたった今検索するとざっと五作(『海城発電』『春昼』『政談十二社』『取舵』『古狢』)出てくる。往時の葉巻の味わいとはどのようなものだったのだろう(次いで約二十歳若い芥川龍之介(明治25年(1892)~昭和2年(1927))もけっこう「葉巻」と書いている)。ちなみに散漫にパルタガスのみを調べると1845〜現在とある。コイーバは無論その頃には製造されない。鏡花の場合、明治時代の初期作品に「葉巻」の字が出て来て、晩年につれ文体が江戸っぽくなる為、江戸時代に葉巻があったかと思えてしまう時代錯誤に陥る。事実明治とはいえ、キューバンダビドフという以上の興味が湧く。
残6センチで明らかに衰える。それでも限りなく+5に近い+4で四捨五入してしまう。葉巻葉巻している為、昨年のロメオにあった葉巻らしからぬポポーの衝撃は無く、葉巻が好きならこちらの方が好きなのだが、どちらが好きなのかわからない。
参照:◉
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