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|SMO JUN 11|4 4/5 x 50|coh-hk|$258.40/25|重量:0(13.40g)|算出:+6|香味:+4|
土混じりのハーブに始まる。ドライハーブの乾きと香りに、泥ソースのたおやかな旨味が絡まる。一口目から極上で不安もない。
固い吸い込みがかえって絶妙で、リンゲージ50ぐらいになると固くても固まり過ぎにはならないのかもしれない。それに、美味しい物がなかなか燃え進まずにいてくれる。
少しずつ甘味と花が乗ってくる。まだ2ミリだが、永久に燃え進まないかのように燃え進まず、もう花が蜂蜜に変わる。土にこぼれた花はいずれ盆に返るだろう。火の物らしく、蜂蜜を焦がした風味も出る。強くて柔らかい。この柔らかさはいつものようにカフェオレ色の瑪瑙の岩の柔らかさなのである。
製造後10ヶ月経つぐらいで、ヴィンテージ物の枯淡の風味以前に壮年期も知らないが、新鮮溌剌にしてもはや滋味深い。
バナナのヒントもある。ヒントがヒントに滞留するのはレコード芸術にそっくりである。「レコード(スピーカー)」なのか「ヴァイオリン」なのか、というのと、「葉巻」なのか「バナナ」なのか、というのが。レコード音と葉巻の煙とは論理的には似ている。「死体」と「涙」と「悲しみ」との関係はここにない。それにしても初めて葉巻にバナナを見た。ヒントどころか、ラジカセでバナナを再生していたのが高級オーディオで再生しているかのようにはっきり馥郁としてくる。ロメオはしばしばフルーツといわれるが、その程度の影ではなく、もっと克明なバナナ本体なのである。葉巻に喩えればコイーバ級のおいしいバナナなのである。バナナなんかべつに好きではなかったのに。……
バナナに巻かれている間に、ハーブはどこ吹く風と消えている。風もまた覆水のように戻ってくるだろう。
実際に花もハーブも草がそよぐように戻ってくる。バナナが染みた木の味わいを引き連れて。これは童話にすればおもしろいかもしれないが、まったく馬鹿な話である。何処から連れて来たのか、まったくよその木を突然連れて来たバナナの父親の気持ちになる。その琥珀色の野趣な子が木のように素朴で、我がバナナ娘の本日からの親友といった体なのである。
突然遠雷が聞こえ、須臾の間に雨音が降ってくる。まるで雨が火種に当ったかのように、我が娘まで消えがちになり、本当に消えてしまう。後は雨が土と草のいきれを立たせる。そうしてコイーバクラブを巨大化したような終盤が中盤から始まり、雨が沛然と鳴り止まないのである。
かと思えば、やはりバナナ娘は私の娘だったらしい、まるで賢い者のように、雨宿りをして、嵐の後にちゃんと家に帰ってくる。まだ中盤だったので、嵐をものともせぬ造りの家の中で、安心した団欒が延々と続くのである。雨は戸の向こうにまだ聞こえるが、花瓶に生けた花と草が芬々と香る。花の種類が不明確なのは、娘のバナナと戯れているからだろう。それにしてもなんと賢い娘だろう。花瓶の花と草は、家の中でもまた乾き始める。花瓶の水を吸い尽くしてドライフラワーが残る。というわけにはいかない。また消え難てに娘がしとやかに出てきたり、もっと荒くれた息子ー雑草のような四葉のクローバーのような息子ーが出てきたりして、なかなか吸い込めず、目に入れて痛く、なかなか終わってくれないのである。目に入れて痛いのも、それが本物の娘や息子ではないからである。吸い込みは悪くない。ロブストの最適重量を13.40gだとも思える。
ただ恍惚感だけはなかった。従って本物の娘や息子には負けるのである。この程度の葉巻なら、家族サービスのほうを勧める。
まったくおかしな事ばかり書いているが、調べてわかる事を書いても仕方がないと思っているのだから仕方がない。
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パイプで舌焼が募ったので葉巻に着火したが、葉巻はどうして火種がパイプの百倍も巨大なのに舌焼しないのだろう。パイプの煙道に紙を丸めて詰めれば煙は冷えるのかもしれない。
土混じりのハーブに始まる。ドライハーブの乾きと香りに、泥ソースのたおやかな旨味が絡まる。一口目から極上で不安もない。
固い吸い込みがかえって絶妙で、リンゲージ50ぐらいになると固くても固まり過ぎにはならないのかもしれない。それに、美味しい物がなかなか燃え進まずにいてくれる。
少しずつ甘味と花が乗ってくる。まだ2ミリだが、永久に燃え進まないかのように燃え進まず、もう花が蜂蜜に変わる。土にこぼれた花はいずれ盆に返るだろう。火の物らしく、蜂蜜を焦がした風味も出る。強くて柔らかい。この柔らかさはいつものようにカフェオレ色の瑪瑙の岩の柔らかさなのである。
製造後10ヶ月経つぐらいで、ヴィンテージ物の枯淡の風味以前に壮年期も知らないが、新鮮溌剌にしてもはや滋味深い。
バナナのヒントもある。ヒントがヒントに滞留するのはレコード芸術にそっくりである。「レコード(スピーカー)」なのか「ヴァイオリン」なのか、というのと、「葉巻」なのか「バナナ」なのか、というのが。レコード音と葉巻の煙とは論理的には似ている。「死体」と「涙」と「悲しみ」との関係はここにない。それにしても初めて葉巻にバナナを見た。ヒントどころか、ラジカセでバナナを再生していたのが高級オーディオで再生しているかのようにはっきり馥郁としてくる。ロメオはしばしばフルーツといわれるが、その程度の影ではなく、もっと克明なバナナ本体なのである。葉巻に喩えればコイーバ級のおいしいバナナなのである。バナナなんかべつに好きではなかったのに。……
バナナに巻かれている間に、ハーブはどこ吹く風と消えている。風もまた覆水のように戻ってくるだろう。
実際に花もハーブも草がそよぐように戻ってくる。バナナが染みた木の味わいを引き連れて。これは童話にすればおもしろいかもしれないが、まったく馬鹿な話である。何処から連れて来たのか、まったくよその木を突然連れて来たバナナの父親の気持ちになる。その琥珀色の野趣な子が木のように素朴で、我がバナナ娘の本日からの親友といった体なのである。
突然遠雷が聞こえ、須臾の間に雨音が降ってくる。まるで雨が火種に当ったかのように、我が娘まで消えがちになり、本当に消えてしまう。後は雨が土と草のいきれを立たせる。そうしてコイーバクラブを巨大化したような終盤が中盤から始まり、雨が沛然と鳴り止まないのである。
かと思えば、やはりバナナ娘は私の娘だったらしい、まるで賢い者のように、雨宿りをして、嵐の後にちゃんと家に帰ってくる。まだ中盤だったので、嵐をものともせぬ造りの家の中で、安心した団欒が延々と続くのである。雨は戸の向こうにまだ聞こえるが、花瓶に生けた花と草が芬々と香る。花の種類が不明確なのは、娘のバナナと戯れているからだろう。それにしてもなんと賢い娘だろう。花瓶の花と草は、家の中でもまた乾き始める。花瓶の水を吸い尽くしてドライフラワーが残る。というわけにはいかない。また消え難てに娘がしとやかに出てきたり、もっと荒くれた息子ー雑草のような四葉のクローバーのような息子ーが出てきたりして、なかなか吸い込めず、目に入れて痛く、なかなか終わってくれないのである。目に入れて痛いのも、それが本物の娘や息子ではないからである。吸い込みは悪くない。ロブストの最適重量を13.40gだとも思える。
ただ恍惚感だけはなかった。従って本物の娘や息子には負けるのである。この程度の葉巻なら、家族サービスのほうを勧める。
まったくおかしな事ばかり書いているが、調べてわかる事を書いても仕方がないと思っているのだから仕方がない。
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パイプで舌焼が募ったので葉巻に着火したが、葉巻はどうして火種がパイプの百倍も巨大なのに舌焼しないのだろう。パイプの煙道に紙を丸めて詰めれば煙は冷えるのかもしれない。
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